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東奥日報

 


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鈴木栄一/太平洋に浮かぶ島国(ミクロネシア連邦)/かつて多くの日本人移住

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ミクロネシア連邦の首都パリキールのあるポンペイ島の風景

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チューク州のウエノ島にある森小弁の墓。筆者は6月に同州を訪れた際に墓参した

 私は今、ミクロネシア連邦という国に住んでいる。この国は昔、南洋群島と呼ばれていた。太平洋に浮かぶこの島国は絵に描いたような南の島であり、車は走っているが、その多くは20キロから30キロのゆっくりとしたスピードで、のどかなところである。

 これまで米大陸、アジア、アフリカなど多くの国々に滞在し、生活してきたが、このような国は初めてだ。まず、この国には交通信号がない。服装もアイランダーズ・ウエアと呼ばれるアロハシャツでどこに行くにも済むのである。

大統領とスーパーマーケットで時々お会いすることがあるが、自分で日本製の車を運転し、買い物をし、そしてレジに列をつくって並んでいる。日本では、考えられないことだ。

 この国に住み始めて半年がたつが、生活してみてこの国と日本とのつながりが深いことを実感する。私の住んでいるポンペイ島は、戦前、多くの日本人が住んでいて、現在もそうだが、なかでもコロニア・タウンは一番にぎやかで、さながら日本人町の様相を呈していたという。

 当時の写真を見ても、さまざまな日本料亭の名前、タクシー会社、洋服店、歯科医院、クリーニング店といった日本語で書かれた看板や広告があり、鈴木商店という名前も出てくる。この島では、現在でも、デンワ、モシモシ、ヤキュウ、ウンドーカイ、ガンバレ、サルマタ(下着)などの日本語の語彙(ごい)が生活の中に溶け込んで使用されている。

 なぜ、こんなに日本の足跡が残されているのかを知るには、大分、昔にさかのぼらなければならない。

 ミクロネシア連邦に来た最初の日本人として高知県出身の森小弁(もり・こべん)という人がいる。漫画「冒険ダン吉」のモデルとして取りざたされている人であるが、明治時代の終わりごろ、91トンしかない帆船でトラック諸島(現在のミクロネシア連邦チューク州)にたどり着き、現地の酋長(しゅうちょう)の娘と結婚し、生涯、トラック諸島で過ごした。

 小弁は、その後、子ども11人、孫94人、さらにひ孫が300人余の子孫を残し、現在では正確な子孫の数はわからないが、千人程度となっているのではないかと思う。このモリファミリーは政治的にも、経済的にも大きな力を持つようになり、現在のモリ大統領は、同ファミリーの一族である。

 その後、第1次世界大戦勃発とともに、日本は、この地域を占領し、国際連盟より認められた委任統治領の時代を含め第2次世界大戦終了まで、この地域を統治することになる。この間、日本では南進論が華やかで、多くの日本人が南洋群島に移住するようになり、最盛時の1940年には、現地人の5万人よりはるかに多い8万人もの日本人が住んでいたという。

 

 

 

 

 

 

 

(東奥日報HPより掲載:http://www.toonippo.co.jp/rensai/ren2011/sekai-machikado/20110902.html)

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